内容、形式、距離への欲望、コミュニティ

最近印象に残っている言葉。恩師の新聞連載で引用されてた。

「情報・・・・を5千マイルなり1万マイル動かすことが重要なのではない。そんなことは電気的な問題にすぎない。国際コミュニケーションの連鎖を決定的に連結させるものは、個人的な接触を最善のかたちで橋渡しする最後の3フィート(約1メートル)、すなわち他者との対話である。」(by エドワード・マロー)

        • 以下、駄文。読みたい人だけどうぞ。

まあ、ジャーナリストの言葉なのであれなんだけど(エンジニアへの敬意がいまいちかも)、、、最後のところかっこいいですね。

僕らの仕事では、ディスプレイに何を表示するのか。どのように表示するのか、というところでしょうか。(内容とインターフェースの両方=最後の3フィート)

とりあえず、メディアを分析的に見る際に、内容(コンテンツ)と形式(アーキテクチャとでもいおうか)を分けて考える傾向がありますが、どちらか一方にしか目が行かないことが多いのです。マローは、当時の世間が後者についての欲望、つまり「遠くへ伝えること」「広く流布させること」への欲望に傾倒していくことに警鐘を鳴らす形で、こんなことを言っています。それよりも「何を、どのような立場で、どのような言葉で伝えるか」に気を配らないといかんだろう、というところでしょうか。特に、ここで問題になっていたのは、「国際コミュニケーションの連鎖」という言葉に象徴される、対話的な展開が実現できるかどうかだったわけです。

マローは映画「グッドナイト&グッドラック」の中でマッカシーと激論を交わしていますが、ここで共和党右派は明らかに「世論誘導」という「影響力への欲望を巡る」戦いを仕掛けて来ています。「こいつは赤だから、アメリカの敵なんです。」という非常に一方的なキャンペーンを彼らは展開しようとした。でも、マローは「理性による対話」を信じて、冷静にそれをやり込めたわけです。(かなりかっこよかった。)
マローは、マスメディアの舞台から自由な公共の議論が失われることを非常に恐れており、彼の辛らつなマスメディア権力批判は、なんというか実に雄弁でかっこよすぎて死ねます。

さて、若干強引につなげますが、、、、
この危惧に応える(実際に応えたわけではないが)概念を持ち出して、アメリカのメディア論に大きな影響を与えたのがジェームズ・ケアリー(日本ではほぼ無名。邦訳なし。)でした。彼は、旧来のメディア観が「影響力への欲望」に囚われてきたことを指摘しながら、メディアにはもう一つ「コミュニティ」を形成する力があることを指摘したのでした。(地域、宗教、政治にいたるまで。)

その当時、マスコミュニケーションの発展に伴い、コミュニティの弱体化が問題視されている中で、メディアの使い方として人々の繋がりを形成する方向に考え方をシフトさせたところがとても重要です。マスメディア中心の価値観をみんなが信じ、言説に対して批判的でもなくなって(元から批判的ではないけど)、地域的価値観だったり、家族のあり方も随分変わってきていたわけです。アメリカっぽく、プラグマティックな知識人な、彼はもう一度グラスルーツからの価値観の再構築を行う必要性を感じていたわけです。(批判的な読みと表現が、受け手によってもなされるべきだということですね。)

そして、70年代から盛んになるミニコミ誌やら地域ジャーナリズムやら、ビデオのコミュニティメディアやら、パブリックアクセスチャンネルやらの実践的試みが理論的によりどころとするのが、このケアリーだったりすることが案外多いのが面白いところ。ちなみに、あんまりお金になってないケースがほとんどで、むしろお金にならないでやっていることに意味がある場合も多い・・・。(皆さん、とても素晴らしいです。)

そういうオルタナティブな展開が、影響力の点でマスメディア並の影響力を持ちえたかというと、まあ当然そのようなことはなく、周縁的なポジショニングに甘んじつつも、そこにいるからこそできる情報収集と発信を行うというのが、これまでのスタンスです。正直、マスメディアに風穴を開ける瞬間がもっと多くあるべきだし、社会における言説の生産プロセスはマスを中心に固着しすぎているというのが、僕の認識です。
コミュニティメディアのプレゼンスが、実際に社会の人々の間で大きなものとなったことはこれまであまりなかったんじゃないかな、と思います。(ミニコミ誌とか、みんなあまり読まないでしょ?)

でも、myspaceしかり、mixiGREE、ブログなどのコミュニティメディアは、最近では電話と同じくらいのプレゼンスを持ちつつあるようにも思います。まだ、ほんとプライベートな展開が主流ですけど、ジャーナリスティックな意味合いでも、(コミュニケケーション研究者の皆さんから)相当期待されてしまう部分はあるようにも思います。

というわけで、とりわけSNSは、その存在意義をコミュニティメディアの創出としている部分がありますが、いくつか達せすべきゴールを宿命付けられているんじゃないかな、と僕はなんとなく思うわけです。(一度に全部達成するのはなかなか難しいでしょうが。)

  1. コミュニティメディアとして、人々の間でマスメディア並の生活上のプレゼンスを達成する。(ある程度の母数も確保する)
  2. ジャーナリスティックとまでは言わないでも、これまでにない形での議論やコンテンツ創造を行う。
  3. ビジネスとしてワークさせる。(助成金や援助に頼らない。)

そういう意味では、SNSをビジネスとして、社会的実験として成功させようとすることは、これまで長らく理論家やメディア・アクティビストが成し遂げようとしてきたことを果たそうとする部分があるのかなあ、とも思います。

色々書いたけど、結論はシンプル・・・。
「面白いことやってビジネスにするのは大変だけど、やりがいあるよね。」

ちなみに、アメリカの左翼系のメディア理論家たちがSNSにどのような論評を行っているのか、そろそろ気になる感じですね・・・。
あと、すいません、、、マーケターなのに、マーケティング的な意味について触れてないです。それは、また別の機会に。