村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチに思う。

エドワード・サイードの言葉を思い出しました。
「知識人はどんな場合にも、二つの選択肢しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。」

村上春樹が今日イスラエルで放った言葉は、まさに知識人としての正義を体現していたように思います。
彼が、こうした明確な政治的メッセージを発することは珍しい。

パレスチナ批判一辺倒のように報道されてはいますが、それだけではなく彼はイスラエルの人々に対する優しい眼差しをも持ち合わせているように思うんですよね・・・。
"egg"は全ての個人だと彼は言っているのだから。当然、ハマスの政治的立場を擁護しているわけではなく、蹂躙される全ての個人の側に立つと言っているのでしょう。

「システムに対して抵抗する人々」という比喩によって、個人の自由について称えるこの賞の趣旨に賛同を示しているんだと思います。
イスラエルという国は、迫害の歴史のトラウマの基に作られていますが、ユダヤ人の優れた知識人の多くが、差別の体験や迫害の極限状況から新しい知性を生み出してきたことも事実。
当然、村上春樹だけでなく、世界中の多くの人がそれに触れて、権力に対する批判精神を磨き上げてきた、という経緯もあります。

その意味でも、彼は例えイスラエルが一方的にパレスチナを破壊しつくそうと、ユダヤの人々に対して希望を失っていないんだと思います。

そんなわけで、彼があの場に立ったことは、とても意味があると僕は思ったのでした。

ちなみに、彼の「壁と卵」の比喩は、どこかエッセイで全く同じことを言っている文章を読んだことがあります。その時も、「僕個人だって政治的に色々思うところは多いけど、敢えて書かないようにしている。でも、一つだけいえるのは、卵の味方だ」というようなことを言っていました。
きっと、彼自身がいつも心に刻んでいる政治観なんでしょう。

悲夢(ネタばれあり)

キム・ギドク監督で、主演がオダギリ・ジョーにイ・ナヨン
僕は、イ・ナヨンの隠れファンでして、彼女が出演する映画を見ては、そのはつらつとした演技に「いいねえ」と思っていたのですが・・・。

この映画、脚本的に全然よろしくなくて、暗いし、痛いし、気持ち悪いし、設定も相当無理してるし。
監督の神経症的世界に付き合わされて、疲れてしまいました・・・。40点。
僕は、低い評価の映画についても、もったいないなあと思ったときだけ長いレビューを書きますが、これもその一つです。

ネタばれ有りなんで、以下それでもいい人だけ読んでください。
とりあえず、楽しみにしてる人は読まないように。

■悪いところ
・基本的に痛い
自傷シーンとか痛くて怖くて目を覆ってしまいましたが、こういう痛みを映画で使う際には、作法的なものがあると思うんですよ。
でも、ギドク監督は「アートだからOKだ。」と言わんばかりに自傷シーンを多様。最後、主人公二人とも自殺ですからね。
物語構築上の必然性も感じないし、そもそも発想が悪趣味すぎます。
・言語のすれ違い
⇒日本語と韓国語でお互い喋りあっていて、別にそれはいいんですけど、、、え、それだけなんですかい?なんか、この設定について脚本的な活用は一切ない。説明もなければ、展開もない。ただ、別の言葉でお互い話してるだけ。
別にメディアアート的なことしたいならそれもいいんですけど、映画人ならそれを超えて脚本に生かしたらどうですかね。この演出によってやりたいことも言いたいことも分かるけど、効果的かといわれればNOです。
・脚本的にひどい
⇒設定として面白い部分もあるんですよ。ただ、不思議ちゃんの精神分析医が出てきて、神秘主義丸出しに「二人は一つです。」とか言ってみたり、興味深い困難を提示しておいて、オチの付け方が自殺だし。設定自体の正当化や説明について強引過ぎるし、謎を提示していて、謎解きには向かわない。しかも、結局死んで終わるっていうのは、主題提示というよりは放棄に見える。これを見て何を思えと言うんだろう。監督は「2回見れば分かる」とか言ってますけど、そのコメントはモラルがなさ過ぎる。映画の物語構築の方が、観客の読解力より優れていると言いたいかのようですが、これは明らかにおごりです。恥ずかしいよ。誰が二回も見るんだよ、この映画を。
・精神病観がちょっと???
⇒なんなんですかね。精神病に救いでも求めてるんでしょうか、この人は。夢の世界についても、分析や解決には向かわないし、治療的な発想はゼロ。病気になって死ねばいいって思ってるのかしら。最後の方で、これまた濃いキャラの精神病患者の女性が、すごい演技力でイ・ナヨンに絡みますけど、この人の扱い方って浅い理解に基づく差別に近いんじゃ。なんか喜んで主人公の自殺の幇助してるし。意味わかんねえっす。(精神の難しさを侮るな、と彼は言いたいのでしょうか。当然、僕も無知なんで良く分からないんですが・・・)
もし、オダギリ・ジョーの見る夢が人間の欲動を形にしたもの(情欲、嫉妬)でコントロール不可能なものなのだと言いたいのであれば、それにどう向き合うかという部分で、キム・ギドク監督は悲観的な結論の持ち主だと思いますね。でも、そのデカダンス路線の現実主義には僕自身は結構食傷気味なのですよ。もう世紀末じゃねえからさ。タナトゥスに固執するのは個人的に好みじゃないや。気の持ちようってあると思うのよ。

■良いところ
イ・ナヨンはいい
⇒健康的な化粧もさせてもらえず、最後は気が狂ったみたいになって自殺っていう、ひどい役ですけど・・・。演技頑張ってました。あとやっぱかわいい。ひどい脚本だったけど、映画がまともな外観を保てているのは彼女のおかげですよ。
・オダギリ・ジョーもまあいい
⇒僕、この人って気取っててそんなに好きじゃないけど、存在感はありますね。雰囲気あるし。いいと思いました。この人のよさは演技力とは違うレベルですね。佇まいというか。コマーシャル的にも役割を果たしたね、というのは失礼かしら。
・映像はいい
⇒これ別に撮影監督がいいってことなのかもしれんし、キム・ギドクの仕事なのかわかんないけど、色合いとかカメラワークとかとてもよかった。綺麗に取れてたし、画作りが効果的で必要なことがよく伝わってきました。
・ロケハンがよい
⇒ロケ地はよいですね。古い時代の韓国の建築物にみんな暮らしていて。韓国の今後の地方の開発はこの方向性でいったらいいんじゃないかと思いました。胡蝶の夢をモチーフにしているから、中世の韓国の雰囲気が溶け込んでいるのはとてもよかった。
・脚本にもちょっといいところがあった
⇒脚本をぼろくそ言いましたが、要するに必要以上にアートを気取らずに普通にやりゃ上手いんだと思います。途中で、二人が交代で寝たりしているシーンなどは展開的にスマートだと思うし、最初の導入部もキレがあって良かったと思う。結局、オチの付け方と自傷趣味を直せばいい映画のはず。監督のやりたいことがそもそも悪趣味なのが敗因。

■総論:基本的に自分を追い詰めるタイプ
こういうタイプの人っていますよね。僕もそうですけど。w
何かしらの状況に巻き込まれたときに、責任を含めて自分だけで背負い込んで破綻するっていう話ですから、そういうのが美しいとか共感に値するって思ってないと、こういう話は書かないと思う。実に孤独ですね。
本当にどうしようもない時は、誰かの助けが必要だと思うんですよね。人間って。

あと、反エンターテイメントなのか、芸術家気取りなのか分かりませんが、見る側を気分悪くさせるっていうのがやりたいことだったとしたらとりあえず成功してるね。
分かりづらいってのも、いい場合と悪い場合があって、この映画は明らかに駄目な方向で分かりづらかった。
物語りの着想やキャスティングが良いだけに、残念なのです・・・。

感想:My Blueberry Nights

最近よく思うんですよ。ノラ・ジョーンズは何か時代の象徴になりつつある、と。



それは、ナチュラルでニュートラルで等身大な都市的な同時代を生きる女性。
しかも、彼女は自分が暮らす場所のどこか外からやってきたような、よそ者としての自分に小さな違和感を感じている。(それは、彼女の歌がカントリーとジャズの中間でアンニュイな空気を漂わせていることからも連想される。)
だからといって、本当の自分を懸命に探すのではなく、ワナビーにサムワンエルスになろうとすることもない、しなやかさをもった女性。アンビバレントな現状を受け入れつつも、前向きさや気楽さを失わない女性。
何かジャンキーなカルチャーにどっぷり走ったり、過食症や拒食症やドラッグや変態的セックスなど過剰な路線にも走らない、ある種バランスの取れたひと。
アウトサイダーでもマジョリティでもない、普通かつ境界的なポジショニングにいるひと。


これまで、様々なポップスターが時代を象徴するイコンとして、かなり無茶なキャラクター設定を強いられてきたように思うのだが、ノラ・ジョーンズにはあまりそうしたラディカルさは要求されていない。
普通っぽくいて欲しいという、世の中の願いがなんとなく彼女を見る大衆の目線から感じられることがある。(彼女自身がそもそもそういう人なんじゃないか、ということはおいておいて。)

そんな訳で、ウォン・カーウェイの新作で描かれるノラは、まさにこの大衆から期待される像に応える形で、キャラクター設定が行われているなあ、と僕は見ていて強く感じたのだった。
うん、まあ要するに、この映画の主題は、ノラ・ジョーンズはやっぱ結構いいよねということを再確認してまったりしようぜ、ということに尽きるんじゃないか、と。(ざっくりしすぎ??でも、ラディカルな奴って見てて疲れるじゃん。)


脚本については、正直言ってすごいことをそんなに言ってるわけじゃないけど、ウィットに富んだ言葉のやり取りが見ていて楽しい、とか、ジュード・ロウの優しい仕草やノラ・ジョーンズの実直そうな表情が見ていて癒されるとか、まあそんな感じの癒しムービーには仕上がってるな、と。(結論:脚本60点くらい)


全体の構成も面白かったです。一つのカフェを出発点として、そこで十分に時間を使った後にロードムービー的な展開があって、最後にまた元の場所に戻ってくる。バランスが良いなあ、上手いなあと僕は勝手に思います。
映画の尺の使い方が贅沢で、なんだかその辺りに好感を持ってしまいました。
(まあ、落ちは読めちまいますけど、例のキスシーンできれいに幕引きしててOKかと。)


あとは、映像がいいですね・・・。間の取り方なんかも、やはりウォン・カーウェイ流の香港のカオスを切り取ったあの時間間隔がいい感じで応用されていて、僕らに何かを思い描かせるだけの空間を与えてくれているように思います。
手持ちのカメラの揺れ具合、意識的なピントずれ、やたら長時間のアップとか、変則的なカメラスピードとか、、、
まあ、認知の「ズレ」を生むことに執着する画作りでした。(基本的に画作りにおいては、「かっちり」したがらない人ですけど。)
色合いもハリウッドじゃ出てこない色合い。これは、やはり中国・香港の映画の色だなあ、と思うのです。
全体的に淡く暖色に包まれてて、それでいてビビッド。あー癒されるわー。笑


つらつらと書きましたが、最後に、、、この映画の浮遊感を増しているもう一つの設定要素は、主人公たちが結局は流れ者だということ。
(ニューヨークに生きる人は、彼らみたいな経済感覚と人生観を持った人が多い気がする。)
彼らは、地縁や血縁などのハードな紐帯に縛られるのではなく、思うがままに流れたり留まったりしている。かといって、貧乏になって死にそうになるわけでもなく、淡々と持続的に人生が浮遊するイメージ。
都会に生きるノマド遊牧民)の姿が、ある種の幻想として、でも実体を持った人間として描かれている。


ウォン・カーウェイがいつも主人公に据えるのは、そうした漂流者ばかりだよなあ、と今回僕は改めて再確認したのでした。
そこから察するに、彼がそもそも描きたいのは、人生のしがらみや難しさに立ち向かうことよりも、むしろ自由な生のあり方にあるんだと思います。そこが多くの若者に共感を得るところなんじゃないかと。


追記:レイチェル・ワイズエド・ハリスの演技がよかった。偉大だわ・・・。
ナタリー・ポートマンは演技上手いけど、印象薄くなったな・・・。なんでだろう。
あと、この映画と似た雰囲気を感じるのは、ヴィム・ベンダースのパリ・テキサスなんだけど、
あれもロードムービーかつ音楽がライ・クーダーという共通点がありましたな。
そのせいもあってか、ほえーーっと気持ちよく見れてしまいました。

My Blueberry Nights

My Blueberry Nights

内容、形式、距離への欲望、コミュニティ

最近印象に残っている言葉。恩師の新聞連載で引用されてた。

「情報・・・・を5千マイルなり1万マイル動かすことが重要なのではない。そんなことは電気的な問題にすぎない。国際コミュニケーションの連鎖を決定的に連結させるものは、個人的な接触を最善のかたちで橋渡しする最後の3フィート(約1メートル)、すなわち他者との対話である。」(by エドワード・マロー)

        • 以下、駄文。読みたい人だけどうぞ。

まあ、ジャーナリストの言葉なのであれなんだけど(エンジニアへの敬意がいまいちかも)、、、最後のところかっこいいですね。

僕らの仕事では、ディスプレイに何を表示するのか。どのように表示するのか、というところでしょうか。(内容とインターフェースの両方=最後の3フィート)

とりあえず、メディアを分析的に見る際に、内容(コンテンツ)と形式(アーキテクチャとでもいおうか)を分けて考える傾向がありますが、どちらか一方にしか目が行かないことが多いのです。マローは、当時の世間が後者についての欲望、つまり「遠くへ伝えること」「広く流布させること」への欲望に傾倒していくことに警鐘を鳴らす形で、こんなことを言っています。それよりも「何を、どのような立場で、どのような言葉で伝えるか」に気を配らないといかんだろう、というところでしょうか。特に、ここで問題になっていたのは、「国際コミュニケーションの連鎖」という言葉に象徴される、対話的な展開が実現できるかどうかだったわけです。

マローは映画「グッドナイト&グッドラック」の中でマッカシーと激論を交わしていますが、ここで共和党右派は明らかに「世論誘導」という「影響力への欲望を巡る」戦いを仕掛けて来ています。「こいつは赤だから、アメリカの敵なんです。」という非常に一方的なキャンペーンを彼らは展開しようとした。でも、マローは「理性による対話」を信じて、冷静にそれをやり込めたわけです。(かなりかっこよかった。)
マローは、マスメディアの舞台から自由な公共の議論が失われることを非常に恐れており、彼の辛らつなマスメディア権力批判は、なんというか実に雄弁でかっこよすぎて死ねます。

さて、若干強引につなげますが、、、、
この危惧に応える(実際に応えたわけではないが)概念を持ち出して、アメリカのメディア論に大きな影響を与えたのがジェームズ・ケアリー(日本ではほぼ無名。邦訳なし。)でした。彼は、旧来のメディア観が「影響力への欲望」に囚われてきたことを指摘しながら、メディアにはもう一つ「コミュニティ」を形成する力があることを指摘したのでした。(地域、宗教、政治にいたるまで。)

その当時、マスコミュニケーションの発展に伴い、コミュニティの弱体化が問題視されている中で、メディアの使い方として人々の繋がりを形成する方向に考え方をシフトさせたところがとても重要です。マスメディア中心の価値観をみんなが信じ、言説に対して批判的でもなくなって(元から批判的ではないけど)、地域的価値観だったり、家族のあり方も随分変わってきていたわけです。アメリカっぽく、プラグマティックな知識人な、彼はもう一度グラスルーツからの価値観の再構築を行う必要性を感じていたわけです。(批判的な読みと表現が、受け手によってもなされるべきだということですね。)

そして、70年代から盛んになるミニコミ誌やら地域ジャーナリズムやら、ビデオのコミュニティメディアやら、パブリックアクセスチャンネルやらの実践的試みが理論的によりどころとするのが、このケアリーだったりすることが案外多いのが面白いところ。ちなみに、あんまりお金になってないケースがほとんどで、むしろお金にならないでやっていることに意味がある場合も多い・・・。(皆さん、とても素晴らしいです。)

そういうオルタナティブな展開が、影響力の点でマスメディア並の影響力を持ちえたかというと、まあ当然そのようなことはなく、周縁的なポジショニングに甘んじつつも、そこにいるからこそできる情報収集と発信を行うというのが、これまでのスタンスです。正直、マスメディアに風穴を開ける瞬間がもっと多くあるべきだし、社会における言説の生産プロセスはマスを中心に固着しすぎているというのが、僕の認識です。
コミュニティメディアのプレゼンスが、実際に社会の人々の間で大きなものとなったことはこれまであまりなかったんじゃないかな、と思います。(ミニコミ誌とか、みんなあまり読まないでしょ?)

でも、myspaceしかり、mixiGREE、ブログなどのコミュニティメディアは、最近では電話と同じくらいのプレゼンスを持ちつつあるようにも思います。まだ、ほんとプライベートな展開が主流ですけど、ジャーナリスティックな意味合いでも、(コミュニケケーション研究者の皆さんから)相当期待されてしまう部分はあるようにも思います。

というわけで、とりわけSNSは、その存在意義をコミュニティメディアの創出としている部分がありますが、いくつか達せすべきゴールを宿命付けられているんじゃないかな、と僕はなんとなく思うわけです。(一度に全部達成するのはなかなか難しいでしょうが。)

  1. コミュニティメディアとして、人々の間でマスメディア並の生活上のプレゼンスを達成する。(ある程度の母数も確保する)
  2. ジャーナリスティックとまでは言わないでも、これまでにない形での議論やコンテンツ創造を行う。
  3. ビジネスとしてワークさせる。(助成金や援助に頼らない。)

そういう意味では、SNSをビジネスとして、社会的実験として成功させようとすることは、これまで長らく理論家やメディア・アクティビストが成し遂げようとしてきたことを果たそうとする部分があるのかなあ、とも思います。

色々書いたけど、結論はシンプル・・・。
「面白いことやってビジネスにするのは大変だけど、やりがいあるよね。」

ちなみに、アメリカの左翼系のメディア理論家たちがSNSにどのような論評を行っているのか、そろそろ気になる感じですね・・・。
あと、すいません、、、マーケターなのに、マーケティング的な意味について触れてないです。それは、また別の機会に。

はてな再開

今後、はてなダイアリーmixiではちょっと硬いなあ、と思う話を展開しようと思います。
日常生活や趣味の話はmixiで。

やることは以下のとおり。
Alternative Mediaに関するウォッチ
修士論文時代の研究のブレークダウン。
−インターネットビジネスの最近の動向についてウォッチ。
−書評。批評。読書メモ。
−ニュースや政治動向について。

大学院を出てからというもの、修士論文で書いたことを生かしていないというか、成仏させていないので、心残りです。また、論文の形で色々なものを残していかなくてはならないと思っています。

メモの代わりに使うことも多いと思いますが、基本的に自分の知的な部分での前進は、こっちに託していきたいなあと思っています。

議論もしたいので、どんどんご意見募集です。
英語のSNSやブログも使いたいですねー。もう一つブログ持つとしたら、海外向けにします。

毎日、深夜まで働いていますが、勉強だけは欠かさないようにしたいと思う今日この頃です。

口頭試問終わり

徹夜でプレゼン準備。朝はかなり体力的にきつい。
→11時から飛び込んでプレゼン。焦ったら3分の2しかパワポを消化できなかった。論文は、かなり問題があることが判明。もっと先生と話しておけばよかったなあ。
→1時。新宿の不動産屋に直行。なんか、前の担当者が事故に遭って、本人は無事なんだけど色々不幸があったりして大変なことに。気の毒すぎる。お昼ごはんは食べられず。
→初台にかなりナイスな物件を発見。実際に現場を見て、もうここにしてしまおうかなあと思う。
→新橋でラーメンズのビデオを4本借りる。半額セール。
お台場海浜公園で新聞代を払い込む。
→4時からお台場でRA総会。大荒れ。政治っぽいことになると途端に熱くなる人っているんですね。もっとソフトに喋れよ、と思ってしまう。
→懇親会。飲み食いして、おしゃべり。そういえば、昨日の夜から何も食べてなかった。
→7時ごろに、近くを通りがかった両親が登場。車の中で将来のことで喧嘩をする。まったく、親が心配しないような自立した人間にさっさとなりたいもんだ。
→8時から2月末のスキー旅行のミーティング。
→9時過ぎからRAルームで、懇親会の残り物を分けながら、今後のRA活動のあり方について議論を交わす。
→11時。話し合いもいい加減くたびれて、ラーメンズのビデオを見たいので帰る。
→11時半同じ階のFさんのパソコンの設定を手伝った後、SさんとTさんとラーメンズを見て笑う。
→12時半。部屋に戻る。パソコンをつけるとメッセンジャーで二人ほど懐かしい人が話しかけてきて、再会を約束する。
→1時半・・・そろそろ寝る。

そういう一日。懇親会のあまりモノがふた皿あるけど、食いきれるかなあ。

うああ

さっきから、プレゼンをまとめているのですが。論文がひどすぎて、欝です。こんなひどいもんを提出したのか、俺は・・・。
くよくよしても仕方ないですが、読めば読むほどやばい部分が出てくる。もっと推敲しなきゃいけなかったんだなあ・・・と。あと、読み返すたびに間違いや抜けがでてくるのもどうにかして欲しい。とりあえず、書籍名のフォントを斜体にしてたのに、なんか全部解除されてるし。どうしてだよう。涙
もう、ぐしゃぐしゃだよ、この論文。どうやって説明すりゃいいんだ。