真珠の耳飾りをつけた少女

blueingreen2004-04-14

を見ました。ちょっと落ち着いたら、レビューを書きます。マニアックな映画だけど、当時の絵画を意識した画作り(というか、絵画そのものを目指して、成功している)と時代考証、観客に安っぽいロマンチシズムを提供しない淡々とした語り口は秀逸です。

http://www.gaga.ne.jp/pearl/

さて。。。一応、書いておきます。(25日)
フェルメールは、当時まだ珍しかったカメラオブスキュラ(ピンホールカメラみたいなやつ)を絵画制作の際に用いて、光と影のつけ方や色の再現などの細部の表現にかなりこだわったらしい。ジョナサン・クレーリーの「観察者の系譜」で指摘されるとおり、カメラオブスキュラは客観的な光学的イメージをはじめて人類に提供したわけで、そこから再現される「生々しい」(ラカン的な意味で)「客観的現実」というものが、我々の文化的生産に入り込んできたのが、近代の始まりといわれるこのフェルメールの時代であったことは、哲学史的にも重要なのであります。(もはや、俺のせりふではありません。)
それはともかく、このフェルメールという男、映画の中では非常にむっつりとしていながらかなり「マトモ」なやつとして描かれており、メイドの主人公の隠された美しさや知性、感性に気がついて惹かれていくんだけど、理性のブレーキがかなり強く働いていて、あまりはめは外さない。彼の中で美と科学が融合しているようすがその作画シーンの描写から浮かび上がっているし、理知的な感じがする。工学的な発想で絵を描いているのだ。
彼と主人公の間のかなわぬ恋愛は、「ターバンを巻いた少女」という作品へと昇華されていくわけだけど、フェルメールがいわゆる芸術家タイプの悩まずに好きなことをやってしまうタイプだったら、この話は成立しない。美的説得力というものに対して、科学的なアプローチをかけた彼だからこそ、この作品のストイックな人物設定が原作者によって連想されたんだろうなあ、と思う。
ヒロインのスカーレット・ヨハンソンは、ロスト・イン・トランスレーションの主人公でもありますが、この作品では非常に地味な顔に演出されており、どこにでもいそうな女の子です。(ちょっとブスに映ってるかも。)そこに潜む美しさや内面的な豊かさに、フェルメールが気づき、大切にいたわっていくんですね。そこで描かれる愛は、単なるエゴイスティックな欲望の発露ではなく(それはヒロインを取り巻く二人の別の男が象徴している)、絵画制作という美的行為をフィルターにして、最後まで純愛であり続けるんです。
まあ、とにかく話作りが上手いや。いろんな仕掛けが見事にかみ合っています。